レイルウェイ・ライター種村直樹さん逝去 | ソウルに通いながら、こう考えた。
レイルウェイライター・種村直樹氏が逝去されました。
現時点ではかつて存在していたファンクラブの友人達からもたらされた情報に寄るところですが、おそらく新聞社の訃報記事が出ることでしょう。
種村氏を知ったのは、中学1年生の時に鉄道研究部の先輩が読んでいた『鉄道旅行術』という書籍を見せてもらったことが始まりでした。そして、気まぐれ列車シリーズを読み、質問の手紙を書き、という多くの読者が通過したのと同じ流れで「種村直樹レイルウェイ・ライター友の会」というファンクラブに入りました。そこのイベントで種村氏と初めてお目にかかれたのが中学2年生の頃です。
当時は既に中学生の鉄道ファンというのはだいぶ珍しかったのか、手紙の内容が小生意気だったからなのか、種村氏に一緒に旅をしないか、というお誘いをいただきました。普通の旅かと思いきや、切符代込み2万円で全てをまかなうという空前絶後な旅と聞き、逆に面白そうだと参加表明の手紙を返信したときのわくわく感はいまでも憶えています。
その模様は『「青春18きっぷ」の旅』としてまとめられ、内容のおもしろさもあって、何刷もいった、という話をあとで聞くに至ります。
高校生になると種村氏から事務所の臨時手伝いをしないか、というお誘いをいただきます。当時、ロングセラーとして、毎年のように改訂が続いていた『鉄道旅行術』という書籍の改訂作業の手伝いでした。まだ社会に出たこともなく、アルバイトの経験もなかった私でしたが、電話取材の方法からお茶の出し方などの社会の基本的知識は種村氏の事務所で学んだといっても良いでしょう。ほかにも書籍の編集現場を生で体験できたのは本当に貴重な体験でした。
浪人時代から正式な「事務所アルバイター」となり、大学四年間は週に一度種村事務所でバイトをしていました。ファンクラブを対象に汽車旅イベントも仕立てましたし、充実した大学生活を送りました。種村氏は非常に厳しいと聞いていましたが、だいぶ丸くなっていたのか、事務所で怒鳴られた経験は私は皆無でした。ちょうどインターネットやパソコンの普及期で、旅行貯金のデータなどを電子化していく作業も担当しており、いまでもおそらくそのデータは残っていると思います。
そのパソコンが私のバイト中にだいぶ古くなってしまったので、新しいものを事務所へ導入しようということになり、秋葉原の店舗をめぐることにしていたその日に種村氏はくも膜下出血で倒れました。その後はくも膜下で倒れたとは思えないような驚異的な回復を見せたのは皆様もご存じかと思います。
私は大学を卒業してまもなく結婚をしましたが、種村氏には新郎側の主賓として出席していただきました。妻の友人にもレイルファンが多数いたこともあり、新婦友人がなぜか新郎の主賓に挨拶に行くという不思議な光景は懐かしいです。式の翌日には友人達の協力で走らせることが出来た貸切ブライダルトレインにもご参加いただいています。二日間にわたりご出席いただけるまでに回復をした、というのは本当にすごいことでした。
その後、病気の後遺症が出てしまったのか、原稿に精彩を欠いたのは残念ではありましたが、大病したあとに原稿が書けるというだけでもすごかったのかもしれません。
そして、2009年にはライフトラベルとしていた外周の旅が終結、2010年には脳出血で再び倒れられ、その後はリハビリを続けられていました。
振り返ってみれば、私の人生は3分の2以上、種村氏とともにありました。私の生き様に大きな影響を与えて下さった種村氏に感謝をしつつ、深く哀悼の意を表したいと思います。これまでお疲れ様でした。向こうで宮脇俊三氏と久しぶり汽車旅をして下さい。合掌。